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【報告】親が決めた相手との結婚式の日に逃げて、行く所がなかった宋さんは「戦地で働けば独りで暮らせる」とだまされ、中国の慰安所に連れて行かれました。7年間も慰安所に閉じ込められた後、だまされて日本兵と結婚し博多に上陸。戦後はそのまま日本で暮らされました。 名乗り出るきっかけを作った川田文子さんは、「言葉(日本語)がわからない日本兵が帯剣して来るので、いつ抜くかと、それが一番怖かった」「何度も逃げようとして殴られ蹴られ、少しずつ中国や戦争がわかってきて、『ここで生きるしかない』とあきらめた」と、川田さん等と宋さんの裁判闘争や生活を支え続けた梁澄子(ヤンチンジャ)さんは、被害や民族性の回復ができていなかった宋さんが裁判を闘う内に、「裁判かけて体験を話してから、ちっとは安心したよ。オレも少しは人間らしくなった」と言っていたこと等を紹介されました。 宋さん、ありがとうございました。私たちは宋さんのことを忘れず、「解決」まで闘い続けます 2011年11月25日、大阪市内第七藝術劇場で、 川田文子さんの質問に対して宋神道さんが証言。 2月3日の追悼会でこの証言映像を見ました。 その一部をアップしています。
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【報告】*1975年、ペ・ポンギさんの存在を知らせる新聞記事 1945年、収容所を出たペさんには食料も寝場所もありませんでした。そのため「サカナヤー」と呼ばれる飲み屋に行っては酔っ払いに身を売り、得た報酬を飲み屋の主人と折半。翌朝、また別の「サカナヤー」を探してさすらう日々。ペさんは「慰安婦」生活よりも酔っ払いに身を売る生活の方が辛かったと川田さんに話しました。 *1978年、渡嘉敷島へ。ぺさんを真ん中にして 自宅を慰安所にされた仲村さん、仲村さんの隣家で自宅を酒保にされた新里さん 同じく川田さんが初めて話を聞いた被害女性たま子さんは、玉の井などの遊郭を転々としたのち、テニアンの遊郭にいた時に、警察から指名され、出征兵士のように万歳三唱で見送られてラバウルの慰安所へ。 *たま子さん 敗戦後、沖縄に移り住んでからも売春以外に生きるすべはなく、米軍の通訳が連れてきた米兵に身を売り、稼ぎを通訳と折半することもあったそうです。植民地支配や生活苦、そして戦争、その中で多くの女性たちがどれほどの人権侵害を受けてきたかが具体的に伝わるお話でした。 |
【報告】韓国を初め世界各国に広がる「平和の碑・少女像」はなぜ増えるのか、岡本有佳さんに聞きました。 周知の如く日本軍性奴隷制は著しい人権侵害の象徴です。国連を初め世界はこのことを強く批判し被害者への誠意ある対応を日本政府に求めました。 平和の必要性を強く訴える被害女性らの声と既に水曜デモが平和を求める「空間」となったことで、「平和の碑・少女像」が日本大使館前の水曜デモが1000回を迎えるにあたって建設されました。 岡本さんは講演で平和を願う、うねりは韓国全土に広がり高校生らが中心となって100体建設運動が始まりほぼ目標を達成するところまで来ていると語っていました。 サンフランシスコ市の平和の碑建設についても、決して「反日」ではなくアジア系移民による運動でもなく、米国で1960年代から盛んになった「公民権」運動を受け継ぐものだったことを報告されました。 会場からも質問や意見表明がありましたが、ある女性は日本のメディアは韓国の国論が二分されているような報道が多いがどうか?の質問に民主化を願うキャンドルデモを支持する国民は圧倒的に多く、反対する人は少数で動員された人も多いと現地メディアも報じていると紹介していました。
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